『赤毛のアン』
先週から放映開始となった連続テレビ小説『花子とアン』。楽しんで観ております。
じつは私、『赤毛のアン』の大ファンなのです。
『赤毛のアン』はいろんな人が訳しているけれど、最初に読んだのは、新潮文庫から出ている村岡花子訳のものだった。当時、中学2年か3年だったか。数ページ読んだだけで夢中になり、その後、何度となく読み返した。アンの生き生きとした姿に、心惹かれたのであります。
年を重ねるにつれ、アンはもちろん大好きだけど、マリラやマシュウのほうに感情移入するようになってきた。あたたかい気持ちで泣ける1冊なのであります。
何十回も読んだわけだけれど、じつは訳者の村岡花子のことは、なにひとつ知らないことに、今さらながら気づいた。どうしても作者のモンゴメリに気が行ってしまっていて……。
原作者はもちろん大切なのだけれど、訳者もとても重要。同じ作品でも、訳者が次第で、名作も駄作になってしまう。そのことを知ったのも、『赤毛のアン』を通してだった。
高校生のころだったか。若者向けの小説を出している出版社から『赤毛のアン』が出版された。さっそく買ってみたのだけれど、村岡花子訳が沁み込んでいる私には、読むに堪えない訳だった。
マシュウがアンを連れてグリーンゲイブルスに帰る場面。「近くに小川はあるかしら?」と尋ねるアンに「ある」と答えるマシュウ。それに対しアンは「ヤッホー!」と言って喜んだのだ。私は思わず、本を畳に叩きつけてしまった。私の中でアンは、そんなような歓声を上げる子では、断じてなかったのである。
気を静め本を拾いなおしたけれど、アンのアイデンティティーとも言うべき「綴りの最後に“e”のつくアン」という部分が、ごっそりカットされていた。日本語にするときに、英語の綴りの説明が出てくると解りにくくなるという判断だろうか? 私にとっては、アンの全否定だった。
そんなわけで、腹が立った記憶はしっかり焼き付いているけれど、この訳を読み終えたかどうかはまったく覚えていない。でも「訳者は大事」ということが学べたという意味では、たいへん勉強になった。
私に『赤毛のアン』を大好きにさせてくれた村岡花子。彼女がどんな人だったのかを、毎日楽しみに観ている。
ドキュメンタリーではないので、遊びが入っているのも楽しい。はなの村にある教会は「阿母里教会」。これは「アヴォンリー」をもじったものでしょう。近所のおしゃべり好きのおばさん・リンは「リンド夫人」、おじいさんの周造は「マシュウ」だよね。周造の「そうさな」という口癖は、マシュウと同じ。私のイメージする「そうさな」にも近いので嬉しい。女学校での友達・醍醐亜矢子は、略すと「だいあや」なので、腹心の友・ダイアナでしょうね。『赤毛のアン』のファンなら、フフッと思うもじりがいくつも出てくる。
気になっているのは、幼馴染の木場朝市(あさいち)。はなが初めて学校に行った日に石版で叩かれた男の子。『赤毛のアン』では、ギルバートとの出会いのシーンだ。木場朝市→キバチョウ→ギルバート……?
ちょっと苦しいけど、「ギルバート」なんて、日本名にするのは難しいもんなぁ。