続・どんぐりも背くらべ

童話作家・九十九耕一のブログ

坂口先生

 6月11日22時23分、私の師匠が亡くなりました。危篤の知らせを受け、病院に駆けつけたときにはすでに意識はありませんでしたが、私が耳もとで呼びかけると、うっすらと目を開けてくれました。医者から「あと数時間」と言われてから、ずいぶん頑張ったと思います。病院の面会時間終了の20時まで、手をさすり、足をさすりしていましたが、私が病院を出て2時間半後に、奥さまから知らせを受けました。白血病と闘って1年。安らかな最期だったそうです。
 6月14日お通夜、翌15日に告別式が執り行われました。あまりたくさんの方には声をかけず、ご親族を中心とした、30名ほどのお別れの会でした。

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 私の師匠は、坂口耕史と言います。私の筆名・九十九耕一の一字は、先生の名前からいただきました。大学や看護学校で論理学を教えていたので、直接、童話の書き方を教わったのではありません。しかし、先生と出逢っていなければ、作家になろうとは思っていなかったでしょう。
 出逢いは剣道でした。私が小学4年生のころ、橋戸剣道団という団体が立ち上がりました。小学校の体育館で、子どもたちに剣道を教えてくれるというので申し込んだところ、コーチ陣の中に坂口先生もいたのです。子どもとよく遊んでくれる先生でした。
 私が中学に上がるときに、先生が塾を立ち上げることになりました。「深耕舎」という名の塾に、私はすぐに申し込みをしました。
 入塾の際、私は先生に「1日1冊、本を読みなさい」と言われました。じつは私はこの当時、読書とは無縁の子どもでした。本なんて、夏休みの宿題の読書感想文を書くために、しぶしぶと手にとるような子だったのです。1日1冊なんて正気の沙汰とは思われませんでした。
「絵本でもなんでもいい。ページをめくるだけでもいい。それだって、なにかしら言葉が頭に飛び込んでくるものだ。だから、1日1冊、本を読みなさい」
 あのとき、こう言われていなければ、私は今でも本を読まなかったかもしれません。

 深耕舎はずいぶん変わった塾でした。国語、英語、数学を、週に2回教えてくれるのですが、テストの点数向上を目的とした塾ではないのです。
 農業に「深耕反転法」という耕し方があるそうです。土地を深く掘り下げ、肥えた土を表面に出す耕法です。こうすると、植える作物が、手を加えずともよく育つのだそうです。
 深耕舎の名の由来は、この耕法でした。子どもの頭と心を深く耕し、よい土を表に出すことが、先生の目的でした。
 子どもを耕すには、どうすればいいか? やはりまず、いっしょに遊ぶことが大事でしょう。そのせいか、深耕舎では、たびたび授業が脱線しました。「大そうめん大会」「大餃子大会」「大百人一首大会」「大七並べ大会」などなど、「大なんとか大会」が数多く開かれました。
 遊びは学びです。ひと口に「子ども」と言っても、個性はバラバラです。もちろん、学校というところも、いろんな個性の子どもが集まる場所です。ですが、だいたい似たような感じの子たちでグループを作り、他のグループの子と遊ぶことは、あまりありません。
 でも、深耕舎の「大なんとか大会」では、学年も個性も違う子たちが、いっしょに楽しく遊びました。
 例えば、大そうめん大会。育ちざかり、ふざけ盛りの年頃の子たちの前に、ドンとそうめんが置かれたます。まず先生がひと口すすり、「よし」と声をかけると、たちまち何膳もの箸が、大きな器に突き刺さります。いかにして、より多く食べるか。麺を箸で取ったからといって安心はできません。口に運ぶまでの間にさらわれるなんてことは、ざらです。ギラギラと目を光らせ隙を伺う肉食系あり、そば猪口を手で覆ってガードしながら食べる草食系あり。中にはそば猪口に入りきらないほど大量の麺を一度につかみ、あえて周りから奪わせて残った麺を食べるという作戦を取る子もいました。
 この、一見ばかばかしい大騒ぎは、子どもたちにとって、非常に価値ある時間でした。勉強ばかりしている優等生、アニメ大好き少年、その名を轟かせた不良少年が、いっしょに大笑いする場が、いかに珍しく、いかに貴重か。
 授業は週に2回でしたが、私たちは週に5回も6回も通っていました。

 集まったのは子どもばかりではありません。剣道の先生方、先生の大学での同僚や教え子も、ちょいちょい来ていました。幅広い年代が、狭い空間に集まっていました。
 大人同士がケンカみたいな議論になることもありました。そこに中学生が普通に意見を挟んできます。「黙ってろ」なんて言う大人はいません。納得したり反論したり、まったく対等。今思えば、深耕舎は、大人にとっても学びの場だったのです。

 猫も集まってきました。飼っている猫だけでなく、近所の猫が喫茶店代わりに使っていました。こういう状態も「猫カフェ」って言うんでしょうか?
 いろんな猫を見て、それぞれ個性があることを知りました。勉強中、ノートの上でくつろぐ猫もいました。塾生は、猫との付き合い方も学びました。
 なんということでしょう! 深耕舎は年代だけでなく、種族をも超えて交わる空間だったのです!

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 この塾では、毎年中学3年生の中からひとり「塾頭」を選出するのですが、私は三代目塾頭でした。成績優秀者が選ばれるのではなく、先生が「この学年で一番おもしろい」と思った子が塾頭になります。偉いわけでも、なにをするわけでもないのですが、私は「深耕舎三代目塾頭」であることに、とても誇りを覚えました。

 深耕舎は、私が高校卒業までの6年間、練馬区のキャベツ畑の脇に明かりを灯していました。「私」が形成される上で、もっとも重要な期間でした。
 もちろんその後も、先生との付き合いは続き、いろんなことを学びました。
 闘病中、何度もお見舞いに行きました。病院の受付で面会者カードを記入する際、「続柄」の欄には「友人」でも「知人」でもなく、必ず「弟子」と書きました。
 無菌室に入り、親族以外の出入りが禁止されても、先生は私だけは病室に入ることを許してくれました。いや、それどころか、看護士や医者に懇願してくれました。
 先生が亡くなる前日もお見舞いに行ったのですが、そのとき帰る際の言葉が、私にとって最後の言葉となりました。
「今度、いつ来れる?」
 これほどありがたい言葉はありません。私などが行くのを、先生は心待ちにしてくれていたのです。

 先生は亡くなりましたが、死んだわけではありません。私の、いえ、多くの人の心の中に生きています。心の中にいて、少々(大いに?)図々しい人でしたから「おい、コーヒー淹れてくれ」なんて言ったりしているのです。
 先生、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします。